ACでHSPでカサンドラなフリーランス女の日記

田舎の中小企業で雇われ社長をしていたら鬱になったためフリーランスに転向することにしました。

2023/02/27のカウンセリングの記録

今日は起きるとものすごくコンディションが悪かった。

理由はわかっていた。昨晩見たETV特集の「ルポ死亡退院」だ。

八王子の滝山病院という精神科病院は、亡くなったために退院扱いとなる患者が7割だか8割だか占めているという。

さまざまな問題が複合してそうなっているそうだが、とても悲しく、ショッキングなドキュメンタリーだった。NHK+での配信だったので、1週間以内に見なければ消えてしまうかも、と思い、急いで見たのが良くなかった。(NHK重課金勢なので、どっちみちNHKオンデマンドで見れる可能性もあったのに)

 

自分も現在精神科に通院していて、過去に入院した経験もあるため、他人事とは思えなかった。なにより、そこで非業の死を遂げた人たちは、もともとすごく「普通」の人々だった。

 

虐待の映像や音声が残っており、見るのが辛かった。でも、いつもの「ドキュメンタリーが好き」な自分のまま、何となく見てしまったのだった。

 

そこから調子が悪くなり、今朝起きたらすごく憂鬱な気持ちだった。

寝ている間も、大量のゾンビに襲われる夢を見て最悪の目覚めだった。

 

午前中に起きてはいたけど、昼まで身支度ができなくて、カウンセリングには微妙に遅刻することになった。

 

カウンセリングに行って、今の調子を伝えると、「最近、安心を感じたことはありませんでしたか?」と言われ、先週、夫に過去の自分の話をしたら受け止めてもらえたことを伝えた。

 

「ではそのときの雰囲気や、体の感覚を思い出してみましょう」と言われ、話した場所や、雰囲気、どんな気持ちだったか、彼が何を言ったかなどを思い出してみた。

 

身体感覚を掴むのが難しかったが、あるときふっと体の芯がほぐれた感覚があり、そのときのシーンを体で思い出すことができた。

 

とても不思議だが、その当時の感覚に戻るだけで、呼吸が深くなり、あたたかな気持ちが胸に広がり、とてもリラックスした気持ちになった。

さっきまで呼吸が早く、陰鬱で、脳の真ん中が痺れたような感覚があり、今日1日をはたしてどうやって乗り越えようか、と途方に暮れていたのに。

 

「すごく不思議だけど今とても安心しています。地に足がついている感覚です。」と伝えると、「それはよかった」と言ってもらえた。

 

そこから、今気がかりなことを色々と話した。

 

その中で言われて、すごく刺さったのが、「あなたはプライドをお金に売り渡さなかったのですね」ということ。

そうなんです。私は自分のプライドを守るために必死で働いてきました。

実家は裕福でも、私がほしかったのはお金ではなく愛情だった。

だから、「愛情をくれないならお金もいらない!」と、自分でやっていけることを証明したくて社会で必死に働いた。

 

私を拾ってくれた社長に出会って、その人に認められたかったのも「必死に働いた」理由の一つでもある。

でも、自分が成長しきって、社長の方が小さく見えることが出てきた。「その判断は違うんじゃない?」と思うことも出てきた。そうしているうちに、自分の立場が苦しくなって、鬱になって退任することになった。

 

これらの話をしているうちに、今の自分の悩みは何も悲観することではないのでは、と思えてきた。

 

というのは、カウンセラーが、社長に対して感じる感情は、青年期心理の健全な成長プロセスの一つではないかと言ってくれたからだ。

 

本来は、愛情をくれる親がいるならば、こうした感情を初めて抱くのは親に対してかもしれない。でも、私は心理的発達を親のもとでできなかったために、その成長プロセスが「育ての親」である社長に対して起きたのではないかと。

 

これらの話をして、かなりそれが真実に近い気がする。と思った。

 

仕事上で多大なストレスがあったのは事実だし、生い立ちのことがあるから余計におおきなアイデンティティであった「仕事をする自分」を失ったのは大ダメージだった。

けれど、自分が心理的にさらに成長するうえで、この悩みはそこまで病的なものではないのではないか。と、カウンセラーは思わせてくれた。

 

ただ、暗いドキュメンタリーひとつで今日ここまで落ち込んでいるのは、自律神経が乱れているのだと思う。とも。

 

交感神経優位のときは、「戦うか、逃げるか」の状態だとよく例えられる。

今日カウンセリングルームにたどり着いたときの自分も、まさにそんな状態だった。狩りをするような状態。

 

けれど、ワークとして「安心した状況を思い浮かべる」ことで、本当に不思議なほど「いつもの自分」に戻れた気がした。つまり副交感神経を働かせることができた。

 

今はさまざまなショックで、交感神経と副交感神経が激しく動く状態になっているのではないかと言われた。

狩りをするしかないギンギンの状態と、それに疲れ果ててグッタリとしている状態を行き来している可能性があると。

 

超アッパーと超ダウナーを繰り返すのではなく、自律神経が自分にコントロールできる範囲内になってくると、多少のストレスを受けても大きなダメージがなくなってくるよと。

は〜〜〜、なるほどな〜〜〜、という感じだった。

 

それから、今まで不思議に思っていたことを聞いてみた。

「副交感神経を働かせたほうがいいと言われるけど、自分から進んでそういうことをする気になれない。例えばヨガとかもやる気にならないんです」と。

 

すると、「子供時代に安心できる状態ではなかったわけです。つまり、いつ愛情を失うかわからない、ひどいことを言われるかわからない状態。そうなると、おちおち安心したりリラックスしたりできないですよね」と。

 

それを聞いて、あ〜〜〜〜、だからか〜〜〜〜〜。って感じだった。すごく腑に落ちた。そう。正確に言えば、ヨガやなんかに気が進まない理由は、「そんなことしてる間になにかあったらどうする?」という恐怖感があるからだった。

 

この心配性で、交感神経優位な自分は、すべて子供時代に作られたんだなと理解した。

もちろん生来のものもあるかもしれないけど、カウンセラーが言うのだからそうなんだろう。

 

前回、「あなたは虐待サバイバーだったんですね」と言われたこともそうだけど、専門家の一言ってすごく重い。力がある。

べつに自分を被害者の立場に置きたいわけではないけど、サバイバーであると言ってもらうことは自分にとってすごく力になった。

自分では、「いや、ゆーて、虐待とまではいわないのでは?」とか、変に事なかれ主義になってしまうからね。

 

「そうです。私はサバイバーです。」と認めて、そこから一歩踏み出す。ということが、これからの作業になるんだ。

 

関西でも東京でも、なかなかこれだ!という人には出会ってこられなかったけど(1~2人くらいかな)、まさかこの田舎町で凄腕のカウンセラーに出会えるなんて。

 

私は人に導かれる運が強いと思う。

そう、この話も今日したのだった。

社長に対して感謝している、育ての親だと思っている、と話したとき、サバイバーの人は親に愛情をもらえなかった分、外にそれを見出すことは多いですよと。

人と出会えたらラッキーだし、そうでなくても、本や映画から人生の師を見つけて、育とうとしていくんですよと。

 

反発心を抱いたり、いろいろあったけれど、人並みの自信を与えてくれたという点で、やはり社長は私にとってかけがえのない人だと思った。まだ反抗期的な気持ちだけど…。

 

それから、今まで「師」のポジションの人によく恵まれると思っていたのも、説明がついた気がした。求めているから、出会うんだなと。

スピな話とかではなくて、「自分を導いてくれる人についていこう」という姿勢でいるのと、そうでないのでは、「師」に出会う確率が普通に違うと思う。

 

この人だ!というときに、「ついていこう」と色々もがいたら、相手も「こいつ、ついてこようとしてるな」と認識してくれる。そこから運命がどう転ぶかはわからないけど、少なくとも「別についていかなくていい」という姿勢を取っている人とは随分違ってくると思うのだ。

 

運がいいとかよく言うけど、私はつくづく運というのは自分である程度作れると思っている。「引き寄せの法則」とか読んだことないけど、多分そういうことが書いてあるんだろうと思っている。(失礼か)

 

それを思えば、自分は、自分を幸福に導いてくれそうな人を見つけて、ひたむきに走っていたと思う。引きこもりを脱して通い始めた塾の先生もそう、大学時代のカウンセラーもそう、社長もそう、そして今のカウンセラーもそう。

なんなら、パーソナルトレーニングの先生もわりとそう。(個人的な話はそこまでしないけれど、生き方をとても尊敬している)

ちょっと違うけど、夫も、彼の専門領域に関してはとてもプロなので、見ていて気持ちがいい。ASD疑惑なのであまり言葉はうまくないけれど、人間性がとても好きなのだ。

 

人だけでなく、カウンセラーのいうように映画や小説、漫画、音楽などにもかなり助けられてきた。「これは自分だ!」と思うような作品を、小さい頃から大切にして、心のよりどころにしてきた。

 

親にちゃんと育てられなかった分、私は必死で他のものに親の愛や自分の姿を見つけて、ひたむきに生きてきたなぁと思う。

 

今日はさまざまなことが氷解し、大きな学びとなった日だった。

今のカウンセラーに出会えて本当によかった。

 

帰り道に、好きなお菓子屋さんでマフィンやクッキーを買って、豆から挽いてコーヒーを淹れて、飲んだり食べたりした。