子供が生まれると人生の主人公が交代してしまうとよく聞くけど、自分の場合はそうなりそうにはない。子供のことは大事だし健やかに育てて行きたいけど、そのためにまず自分の人生を新しく作らないと、という思いが強くある。
とはいえ、去年雇われ社長の身分を退いて、次の身の振り方がなかなか決まらずにいた。せめて妊娠中は考えなくていいと割り切っていたけど、ついに子供が産まれてしまい、なんやかんやで保育園入園なんかも視野に入ってきたので、本当に決めざるを得なくなってきた。
もちろんバシッと決めてその通りにしないといけない、とかはないので、少しずつ動きながら微調整すればいいんだとおもう。でも自分の場合あまりにもプランが白紙すぎるので、ある程度机上でこんな感じ、と組み立ててからスタートしたい。
休職をはじめてから早くも1年3ヶ月。
この間、自分は何をしたいのか、何が好きで何をしたくないのか、よーく考えた。こんなに考えたことないってくらい…。
その結果わかったこと。
・プログラミングの勉強をしたが、本職にはできなさそう。自分は理系ではないと痛感した(でも簡単なアプリくらいは作れる自分でありたい。)
・コーディングやweb製作はできそうだが、本業として承ったことがないので自信なし。やってる間は楽しいが職業にした場合どうだろうという感じ。あと単価が安そう
・宅建の勉強をしようかとかなり悩んだが、不動産業界へ行くビジョンが描けない。絶対ブラックだし無理。開業しても営業とかできん。
・ただそっち系の知識はほしいので勉強はしたい。FP3級の資格はコツコツ勉強して取得したい。
・校閲を生業にする主人公が出てくる小説を読んだ時、なんかしらんけどこれだ!と思った。ウェブ媒体の校閲は数年やっているので求人を探そうとおもう。時給2000円くらいのものもある。
・日本語に触れるのが好きである。
住んでいる町で外国人に日本語を教えるボランティアを募集しているので応募してみたい。
・血糖値が心配なこともあり、今後も筋トレ等の運動は必須。産褥期を終えたらジム通いを再開したい。
・本屋に行くと癒される。癒されすぎて泣いてしまうことすらある。さほど多読してきたわけではないが、本屋が好きという理由だけで本屋を開業したい。簡単でないとはおもうが将来の夢としたい。本に触れる何かをしたい。
こういうようなことだ。
なので、息子がある程度の月齢に達したら校閲の仕事を始め、保育園へ預け、ジム通いと日本語ボランティアとFPの勉強をしたい。
あと近くに友人がいないのは死活問題なので友人と呼べる人をもう少し作りたい。
カルチャーに造詣の深い人がいい。
この田舎にもきっと趣味の合う人がいるでしょう、少しくらいは。
とにかく今は3時間おきの授乳やらなんやらが辛いなぁ〜。夫も育児ストレスで体調が悪くかわいそう、、
でもこのくそ大変な日々であっても、自分のアイデンティティが確立していない不安が前面に来る。これが自分。
それから最近わかった大きなことがもう一つ。
自分の人生の舵取りを絶対に人に任せたくないということだ。
幸福の定義も、そこへ向かう方法も自分で決めたい。
身近な人のとある振る舞いを見ていて、自分の幸福の尺度すらほかの人に委ねることがあると知って愕然とした。自分はそういうのは絶対に嫌だ。
そういう状態を「狂う」と私は捉えている。
鬱になるのと狂うのだったら、鬱になる方がいい。鬱になってでも、真実から目を逸らしたくない。
たとえ自分が定義づけた「幸福」から外れていたとしても、あぁ外れているなぁ不幸だなぁと思いながら生きていたい。
外れているのに、それでも自分は幸福だ!と自分を騙しながら生きることが絶対に絶対に嫌なのだと、わかった。
とある身近な人、を見る目はガラリと変わってしまったけど、このことを教えてくれて本当によかった。
世の中には私にとっての「狂った」状態で生きている人がたくさんいるのだ。他人を勝手に狂ってるとか言ったら大変失礼だけれど、ホス狂とか、過度な推し活なども私から見たら「狂って」いる。もちろん本人が幸せというならどうしようもないけれど、やっぱり行き着く先は依存であって、苦しみなのかなとおもう。楽しんでやっているうちは単なる趣味だよね。
まあ他人のことはわからないし、バカにする気も辞めさせる気もない。
とにかく自分が、そういう状態になることを毛嫌いしているということが、ここ数ヶ月で痛烈にわかった。
鬱になってでも正気でいたい。
それくらい自分にとって重要な価値観だった。
鬱になってでも自分にとっての真実を見ようとしている人が好きだ。
と、これらとはまた全然別のレイヤーで、自分は幸福がなんなのかやっぱりわからない。完全に機能不全家庭やら、小児期逆境体験の影響だとおもう。
でもわからないからと引きこもり生活を続行するのももう限界なので、薄くゆるい繋がりと仕事から、社会復帰を始めていこうと思う。
自己肯定感は全然ないにも関わらず、ときどきふとした瞬間に、あーやっぱ自分って結構有能なのでは?と思ったりもする。
たとえば育児学級に参加して歓談せねばならないとき、うまく話せない人ばかりで沈黙が続きそうだなと思ったら自分がファシリを買って出る。
そんな役割頼んでねーよという感じかもしれないが、話したことに対して反応が薄かったり、自分だけ発言してないとかだとショボンとする人もいると思うのだ、、
うまく場を回して、話せるムードを作る。こういうのは昔から得意だ。悪く言えば仕切り屋だが。。
自分に自信がなくて埋没したい反面、小さなグループではリーダーになることが多かった。
これも紛れもない自分の一要素なんだなぁ。
2023年は自己分析の年だった。お腹に子供を育てながら。
2024年は少しは前に進めるといいなと思う。
とはいえ、うまくいけばもう1人子供がほしいので、どれだけのことができるかという感じだが。
一度きりの人生、大冒険して死にたい。
それにはあまりに引きこもりすぎた。
自分について考えすぎた。
でも、そんな季節があってもいいと思う。
自分の人生に意味を見出すこと。ロゴセラピー的な。どんなに辛くても意味を感じられたらそれでいい。今年は一歩踏み出したい。