10月にコロナになって以来の高熱が出た。
夕方まではなんともなく、デパートでお刺身を買ってウキウキで帰宅したのに。
16:30頃、なんか寒い?と思ったが、スリッパを履かず裸足で少し家の中を歩いたせいだと思い、カーディガンを羽織って靴下スリッパを履いたけどなかなか暖まらない。
今日ってほんとに寒いんだなと思い、エアコンと謎の暖房(レンガをあたためるやつ)をW使いし、羽毛布団にくるまって30分ほど横になったけどどんどん寒くなってくる。
ここでやっと、え、もしかして熱出てる?
となり、熱を計測。すると37.0度で、微妙な感じ。
やっぱり寒気が引かないので、15分後にもう一度計測すると37.5度。ありゃりゃ、これは風邪かな?と思っていたら、あれよあれよという間に39.8度まで上がってしまった。
右胸がやや痛いので乳腺炎とかであってほしい!
(イヤだけど!)けどインフルか何かな気がする😔
今のところ熱以外目立って症状はないけど、鼻が少し詰まり始めた気もする。。
SNSに書いたら、友人も全く同じ症状でインフルA型だったとのこと。
明日病院に行くしかないけど、インフルじゃないといいなぁ、、
申し訳ないのは、夫に息子の世話を丸投げしてしまうこと。明日は大丈夫なようだけど、明後日は職場に行きたいらしい。
職場といっても週1のアルバイトなのだけど、夫はたいへんお世話になっているし、週1バイトとは思えないホワイト高待遇を受けている。
だから私も行ってほしいけど、さすがに家族がインフルじゃだめだよね。申し訳ないな。。
でもそんな夫は、わたしが高熱を出したとわかったときものすごく塩対応だった。
物質的なケアはそれなりにしてくれる人なので、「これは熱だね。ゆっくりして」とだけ言い残して即薬局へ。必要なものを色々と買い込み、あとは無言、無表情…。
息子の世話ワンオペだ、とか、職場行けないかも、とか、色々よぎったんだと思う。
でも、申し訳ないけど、もう少しねぎらってほしかったなと思ってしまった。もちろん、薬局へ行ってくれるだけいい、息子の面倒見てくれて助かる、夫は夫なりにガーンとなったのもすごくよくわかる!だけど急な高熱で私もすごく焦ったし、体はキツいし、あともう一言、、欲しかったなと思ってしまった。。(見る人によっては贅沢だとわかっています)
大人の自分は、夫がそういう態度なのは仕方ないと理解して、自分に仕方ないと言い聞かせてる。
でも熱のせいもあってか、もっと優しくされたい!熱が出てるのに!こんなにしんどいのに!というまるで子供みたいな自分も確かに存在する。
私は小さい頃熱を出したら親に怒られていた。
優しく看病されたことがゼロではないけど、嬉しすぎてその1回をすごくよく覚えていて、あとはとにかく母が無表情でため息、不機嫌だった記憶。でも物理的にはとても献身的にケアしてくれる人だった。介入しすぎなほどに。
自分の体が辛くて心が参った時に、一番わかってほしい人に寄り添われた記憶があまりない。これはとてもつらいことだと思う。
不機嫌を丸出しにされたり、怒られたり、私の方が辛い!と言われたり、まるで無視して頓珍漢なことを言われたり。
そしてそれは多分夫も同じなんだと思う。
同じ目線で寄り添って、物理的にでなくたった一言が心のケアになるとわからないのは、ASDグレーなのもあるけど、されたことがないのも大きいと思う。
夫はわたしが熱を出しても怒らないし、「してほしいことがあったら言って」と言ってくれるけど、無表情だし、積極的には介入してくれないので怖くて結局あまり頼むことができない。
頼むと無表情で淡々と物理的にケアをしてくれるけど、怒っていないとわかっていてもその時間はとても怖い。
だから39度あっても、搾乳機のパーツを自分で洗い、消毒して隔離部屋に持って行く。悲しい気持ちになる。
そんなことしなくていい!俺がやる!はない。頼めないからわたしが自力でふぅふぅ言いながら自分のケアをしていても、夫は見てすらいない。
助けを求めて来ないから、それはできるということ。という認識だと思う。
「ゆっくりして」とは言ってくれたけど、もう一言でいいから、「うわっ、40度近いじゃん!やばいね。インフルかな?今日は寝て早く良くなってね!」など、驚きや共感を感じられる言葉が欲しかったなぁと思ってしまう。
わたしに注意を向けて欲しかったと思ってしまう。
高熱が出た時に家族がいて、1人きりでないこと。すぐに薬局に行って必要なものを買ってきてくれること。
これらは本当にありがたくて、心底感謝だけれど、心があと少し近くに感じられたら、こんなに悲しくて寂しい気持ちではなかったなと思う。
相性の問題というか、私が体調を崩すことにある種トラウマを抱えているからこうなんだなと。
もっとドライな人だったら、これで十分だったと思う。
でも私の心の中には、不満を訴えている小さな自分がいて、その声を無視することはできない。
夫への働きかけをするかどうかということとは別に、その声を無視せずに自分で癒してあげないといけないと思う。
小さい頃の自分はとてもかわいそうだった。
物理的なケアは得られても、一番愛してほしい人からの関心や共感は得られなかった。
熱を出すたびに母の機嫌が悪くなるので、体調が悪くなると気持ちがとても沈んだ。熱だけでなく、怒りや悲しみといった感情を出すと母の思い通りにならなくなるので、不機嫌をぶつけられた。
私は思ったままに感情を出せなくて、とても苦しかった。
辛いからこそ甘やかしてほしかった。それが教育上いいのかわからないけど、私のされてきたことは明らかに間違いだった。
夫の表情や言葉から、そのときのことが想起されるのがとてもつらい。なぜ40度近い熱が出て、とても苦しいのに、弱っているのに、そんな悲しい気持ちにならないといけないんだろう。
心の中で、小さい自分が泣いている。
すべて事情を理解している大人の自分が、それを抑えつけて平気な顔をしようとしている。
子供は、親からの関心を糧に心を豊かにしていく。本当は、息子のためにも心のケアができる夫であってほしい。でも、息子のために、と言うのは間違っているとわかっている。
私が悲しいから、注目してほしい。一番愛しているのがあなただから、辛いしんどいことに、共感してほしいと思ってしまう。
実は夫にこれを伝えた。あと一言何かあったら嬉しかったと。「それは言えない。」と言われて、「なんで?息子の世話が大変だから?」と聞いたら「そうだと思う」と。
息子に手がかかるから息子以外は何もできなくなるのなら、一生私は愛してくれないのかなと、また小さい私は存在が否定されるような危機感を持った。
最終的に夫は、「ゆっくり休んで…早くよくなってね」と言ってくれた。
嬉しかったし、ありがとう。と言ったけれど、私の心は晴れないままだし、実際目の前のことで夫に負荷をかけてしまっているのに、さらに慣れない、言いたくないことを無理やり言わせたようでいたたまれない気持ちになった。
夫がトラウマを持つ妻に、まるで母親のように接することでよくなる妻もいるだろう。
そういう夫婦関係をとても羨ましいと思う自分もいるけど、共依存的になることが怖いとも思う。
だから、必要以上に介入してこない、だけれどじんわりと見守ってそれなりに愛をもって接してくれる彼がいいと思った。
依存したくても、向こうは依存してこない、できることだけをしてくれるのはまるで私の欠点を隠してくれるようで、いいと思った。
だけれど私のトラウマと重なる部分については、毎回トラウマを追体験(再演というのか?)することになり、とてもしんどい。
解熱して、お互いに余裕がある日ができたら、このことを話してみたいと思う。
彼に無理を強いずに、だけど私がとても辛い気持ちになることのない、なにか折衷案がほしい。
彼はいい人だ。彼を愛している。彼が私を愛していることもよくわかっている。
だけど私の心の中には愛を求めて泣いている子供がいる。子供ができて、母になって、強くならなければいけなくても、どうしようもなく解きほぐせない部分がある。
そういう自分をなんとかしたくて、それに気づいた18歳の頃からずっと本を読んだりセラピーを受けたり、普通の人みたいにできるようにとにかくイメトレして経験を積んで、変えられる部分を変えてきたと思う。
だけどその影響は本当に大きくて、夫からの愛を得られないと感じた瞬間に、自分の子供よりも心の中の小さい自分が優先してしまうのを感じる。
一度、購入したスリングを一緒に試してほしいともちかけたときにとてもイヤそうにされて、ショックだった。「今ちょっと難しいから後で一緒にやろう」とかではなくて、「はぁ…お風呂に入りたいんだけど…」という態度だった。
無理やり付き合わせているような構図にされたと感じて、私は抗議した。
すると夫は黙ってお風呂に入ってしまい、ちょうど息子が泣き始めた。
産後間もなかったこともあるのか、私は異常なほどイライラして、息子が泣くのを少しの間無視してしまった。
何が不満だったのか、息子は火がついたように大声で泣いて、もちろん世話をしたのだけど、いつもよりは長く泣かせてしまうことになった。
あってはならないことだと理解しているけど、その時私は、息子と自分を同一視していたと思う。
いくら泣いても、助けはこなかったから。
愛されたくても、愛されなかったから。
息子を泣かせたままにすることは、過去の自分を痛めつけるのと同義で、そこに「もっとやれ!もっと泣かせろ!」と思っている自分が確実に存在した。
実際何分泣かせたのか、それが虐待と言われるほどの長さでは絶対にないし、丁寧にケアをしたのだけど、その短い時間の間に、心の中にものすごく恐ろしい自分がいると気づいた。本当にショックだった。
泣き止んだ息子の表情は、いつもと違う気がした。これを心の楔として覚えておこうと思って、息子の写真を撮った。
それを見返すといまだに、強烈に心が痛くなる。
心なしかふてくされているように見える顔。
とってもかわいいのに、愛されるために、健全に発育して、思い通りに生きていくために生まれてきたのに(少なくともそのように思いを込めている)、小さい頃の自分と同じ顔ではないかと。
小さい頃の自分を愛で満たしてやりたい自分と、母と同じ視点でいじめ抜いて安心したい自分。
それは息子に対しても全く同じなのかと背筋が凍った。本当にショックだった。
18から自分の育ちを自覚して、ずっと努力してきて、この人となら子育てができるかもしれないと思ったのに。
それを感じたのは今のところその一件だけだけど、これはきちんと整理しないとのちのち大変だと思う。
虐待の連鎖を断ち切りたくて、それだけは絶対に果たしたくて息子を産んだのに…ここまで自分に向き合って、自分の感情に嘘をつかずに、夫ともアサーティブに接することができている、きっと大丈夫、と思ったのに。
ショックだったし、これが自分が一番見るべきものなんだよ。向き合って、まだまだ努力しなきゃいけないものなんだよ。と思わされた。
今もまだあの写真を見るのがつらい。
もしも、息子に物心がついて、私と意見が合わないことが出てきた時、無理やりコントロールしてしまったら。息子の気持ちに寄り添わないで、自分のエゴをぶつけてしまったら。
そうしたら必ずその歪みが問題になって出てくる。わたしが一番よくわかっている。
もし、絶対に繰り返さないと決めて、カウンセリングにも通い続けてすごく努力したのに、そんな風になってしまったら、私の人生は終わると思う。
結局機能不全家庭に育ったら、そういう子供を再生産してしまうのだということだから。
これまでの努力が身を結ばなかったということ、カエルの子はカエルだということだから。
本当に子育てを成功(何かになってほしい、とかではなく愛着の問題を抱えてない大人にすること)させたいなら、結局は自分のセラピーを続けるしかない。
心の中で凝っている子供の自分の悲しみを無理やり抑えても結局ダメだから。
根性論とか精神論でとにかく頑張る、無理やりにでも自分を押さえ込んで笑顔で子育てする、とかではなく、わたしが本当に癒されなければならないのだと思う。
わたし自身が癒やされたときに、あの痛みを感じずに息子に向き合えるようになるのだと思う。
違う話だけど、私は女の人がめちゃくちゃにされることに興奮する性的ファンタジーを持っている。ちょっとヤバいかもしれないけど、現実の性生活ではたぶん通常の域を出たことがないし、強烈に誰かに加害的なことをしたこともされたこともない。あくまでファンタジーというか好みのレベルの話。
先日のことがあってから、私はめちゃくちゃにされる女性に幼い自分を重ねているのだと思った。
そういうシチュエーションの性的表現物を見る時の自分と、先日の息子に対して沸き起こった感情の源泉は近いと思った。(当たり前だが息子に性的なものを感じるとか性的にめちゃくちゃにしたいとかではない、全然別の話)
つまりAVの中でめちゃくちゃにされる女性を見る時も、泣く息子を見る時も、そこに幼い頃の自分を見出しているということ。
この感覚はすごく不思議で、悲しくて、絶望的。
息子のことを愛しているし、1分だか2分放置してしまったあの日以来そんな感情は沸かないけど…
自分でいることは、なんて苦しいんだろう。よくここまで、大きなトラブルも何もなくサバイバルしてきたと思う。
先日カウンセラーに、「あなたはあまり考えすぎない方がいい。アダルトチルドレンとか、調べすぎない方がいい。思考に偏るのは楽だからついそうなると思うけど、いまあなたがやるべきは感情をしっかり感じることです。感情や感覚を大切にすることです。きっと苦しい感情が多かったから、頭で考えて納得することに慣れている。けど感情は自然に湧いてくるもので、否定していいものでも、否定できるものでもないですよ。」と言われた。
その通りだと思う。
女だからと舐められたくないのも相まって、私はかなり理屈っぽい人間になってしまった。だけど、それはつらい感情を殺すためにやったことだった。
日常的に、嬉しい、楽しい、ワクワクする、あったかい気持ちになる、そういうものは少なく、感情といえば悲しみ、怒り…もっと奥には孤独感、絶望感、渇望感、そういったものばかりだったから。
トラウマや心の問題は、その人がサバイバルするために必要だったという見方がある。
まさにその通りで、悲しくてつらい毎日をしっかり感じなくてもいいように、私は理屈を磨いた。早いうちから大人であろうとした。子供らしくない、やたらと気を使う子供だったと思う。
でも、無理して押さえつけた感情は、なくなるわけじゃない。だから思春期にそれが噴出して、精神科通いが始まった。
すべては現実と同じで、力学があって、おさえつければどこか別のところから必ず噴出する。何か問題になって現れる。凶悪犯の生い立ちが大体悲惨なのもそういうことだ。
トラウマを追体験すると、あっという間に子供の頃の感覚に戻ってしまって、理論武装した大人な自分はあっけなく吹き飛んでしまう。
愛されたい!無視しないで!怒鳴らないで!
そう叫びたかった自分自身に時空を超えてタイムスリップしてしまう。だからおかしくなる。
急にキレる人も同じ理屈だと思う。
それは子供時代の自分にとってのリアルな命の危機だから、命より大事、と大人の自分が思っている息子を前にしても怯むことがない。
そうでもしないと自分を守ってこれなかった、直視したら死にたくなるほどつらかった、幼い自分が必死で生き抜こうとした証拠こそがトラウマなのだ。
高熱が出て、体が辛いから身の危険を想起してトラウマが呼び起こされるのだろうか。
絶対に寝ないといけないのに、思考はよくないと言われているのに、自分の中の小さな自分が暴れて寝たくない。
我慢じゃなくて、癒やさないと、本当の意味で息子を愛せない。それはとても難しいことだ。感情をありのまま感じるのは、恐ろしいことだ。
体がつらくて、心もつらくて、どうしようもなく昔のことを思い出す。
写真の中の困り顔の私はとってもかわいい。
なのにお母さんはどうして、私を愛してくれなかったの?
今はわかっている。母も、子供の母が命の危機を感じて、私より優先したんだって。
決して愛していなかったわけじゃないって。
辛くて寂しくて、誰かに触れたいけどインフルかもしれなくて無理な夜。小さい自分にとことん付き合ってあげる。
それが終わったら、療養が終わったら、夫のことも息子のことも思い切り抱きしめたい。
ままならなくても、死んでもおかしくなかったわたしがサバイバルして、命からがら得た宝物だから。。