私の住んでいる県では、3泊まで県内の産後ケア施設を利用することができる。
費用はかなり助成されて、なんと3泊で1万円。
子供が4ヶ月になるまでしか利用できないのと、私も夫もそろそろ2人だけの育児にくたびれてきたので来てみることにした。
施設はとても良い!わりと赤ちゃんを預かって私1人にしてくれるし、ジャグジー付きの温泉に入れるし、食事もヘルシーでおいしい。
母乳の悩み相談にも乗ってくれて至れり尽くせり。
心も1人きりになれた感じがする。
ほんとに、ちょっと見ててくれるだけでいいんだよ…子供のことを気にしなくていい時間って本当にありがたい。
家でも子供が寝てくれてたら一応1人にはなれるけど、やっぱいつ起きるかな?ってヒヤヒヤしてるんだよね。。
そんな1人になった心でいろんなことを考えている。
すごく仲のいい友達に「出産祝い考えておいてね」と言われたこととか。
大切な友達だから、ずっと使えるものや、ずっと置いておけるものをもらえたら嬉しい。
おむつポーチか、サンリオのメリーがいいかなと思っている。
サンリオのメリー、調べようと思ってずっと放置してしまってた。
改めてサイトを見てみたらとっってもかわいい。
果たして男の子でも気にいるか?は謎だけど。けろっぴやポチャッコなら好きになってくれるかな?
そこで思い出したことがある。
前回のカウンセリングで、「自分の好きなものは心の中の栄養になって大変な時を支えてくれる」という話になった。
というのも、私は自分の好きなものをうっすら卑下しているから。
自分のような人間が好きなものは、たいしたことがない。世間ではさげすまれる。
そんなふうに思っている面がある。
これが、例えば「自分の尊敬している人が好きな物」だと、無条件で「これ、いいよね」と人にも言えてしまう。
でも自分発信で見つけたもの、好きになったもののことは素直にそうとは言えないのだ。
昔からサブカルに分類されるものが好きで、メジャーどころの音楽や本、映画を好きになれなかったのも一因だと思う。
クラスの友達がジャニーズの話をしているとき、自分は笠置シヅ子とか昭和のアニメソング、嘉門達夫に夢中で、給食の時間にアタックNo.1のテーマをリクエストして流してもらって失笑を買ったりしていた。(今になれば、なんて有望な小2なんだ!と思うけど)
思春期に入ってからはたま、戸川純、人間椅子、P-MODELなどのサブカル系邦楽や邦ロック、80年代洋楽、洋楽ポップスが好きになったが、学校に行かなくなったので語り合える人はおらず孤独だった。
まぁ実際変な音楽だし、人にわかってもらうのは困難だと思う。でもその辺の趣味を親に否定されまくったのは、とてもショックだった。
あとは食の好み。私は昔からこってりしたクリームパスタとかグラタンが大好きだった。
とくにカルボナーラが好きだったけど、健康志向の母親にはそういう好み自体を否定されていたと思う。
子供の頃だから食事は基本親が管理している。週に何度も食べるわけじゃないのに、誕生日にレストランでカルボナーラを注文したら母に睨まれて、「そんなもの食べて」と怒られた。
それでも一緒に行ったおばあちゃんか誰かが、まぁまぁいいじゃないと言ってくれたのかな?それで注文したけど、食べている間じゅう母は私のことを睨みつけていた。
そういうことの積み重ねで、私は自分の食の好みを恥じるようになった。
私の父方の祖父は糖尿が原因で亡くなっていて、父も糖尿病。そして私も父の体質を引き継いでしまい、発病はしていないけど少し血糖値が気になる。
だから母も心配でそう言っていたんだと思うけど、脂っこいものが好きなのって変わらないし、それも込みで自分。
とにかく食行動を批判され続けて、自分の食の好みは下卑ている、卑しいと思うようになった。
だから自分と同じような食べ物が好きな人は、同じように下卑ていると思うようになったし、逆に尊敬する人と好みが似ていたら、「こんなきちんとした人が、何で?」と思ってしまう。
だからいまだに人と食事に行って、カルボナーラとか明太クリームパスタとか(大好き)を注文するのは怖い。怖いといっても、注文はできるんだけど、何かコメントされるのがとてもいやだ。(おいしそう、とかでもイヤ。)
シェアハウスに住んでいたころは料理するところを見られるのがかなり苦痛だった。
今も夫に、そういうものを作っているところを見られるのが苦手。夫にはそこそこ何でも言えるから、来ないで!見ないで!何もコメントしないで!と言えるけど。。(夫は私のやることにいい意味でまるで関心がないので、はいはいと言って立ち去っていく)
話が逸れたけど、だから私は自分の好きなものについて、心から好きだと言えなくなってしまった。
でも前回のカウンセリングの中で、自分の好きなものは、自分を強くしてくれるという話になり、そのようなイメージをしてみたら確かに力をくれるような気がしたのだ。
多分だけど人間は、自分1人きりでは内側から自己を肯定したりするの難しいんじゃないかな。
適切な人との関わりの中で、人を鏡にして自分の相対的な位置を確認したり、好きな物で自分の応援団を作ったりして、なんとか世間の荒波を乗り越えられるんじゃないかなぁ。
みんなそういうオプションをつけて世の中に出てくるのに、自分はつけてないどころか、色々剥ぎ取られた状態でバーンと出ていったために、まず不登校になったのではないか。と思う。
めちゃくちゃ話は飛んだけど、サンリオのメリーが可愛すぎてそのようなことを思ったのだ。
人生で初めて出会うお友達。
親からの愛情がたっぷりもらえれば、溢れた分は形を変えて、メリーのぬいぐるみや毛布に移っていく。
それは子供の応援団になって、少しの間親が目を離しても、代わりに愛情を与えてくれる。子供はそれで、1人でも大丈夫だと理解していくんじゃないかな。
よく、毛布やぬいぐるみが手放せない子がいると聞くけど、それはちゃんと愛着が得られているかららしい。
私は愛着形成に思いきり問題があったので、親代わりになるものはなかったし、ぬいぐるみに愛着を感じることもなかった。
だけどサンリオのメリーのぬいぐるみをめちゃくちゃかわいいとは思う。
子供にたっぷり愛をあげて、そのこぼれた分がかわいいぬいぐるみにも注がれて、私の分身になったら、それはなんて最高なことだろうと思う。
自分もそういう小さな友達が欲しかった。
ママがいなくてもまいっか、この子と遊んでいようと思えるようなお友達が。
トイストーリーじゃないけど、そういう小さな友達のことはいつか忘れるくらいでもいい。
覚えてないくらい小さな頃に、たしかに子供の成長を支えて、健やかに育つアシストをしてくれる存在があったら、それは本当に最高なこと。
好きなものがあるってそういうことだと思うのだ。
だからカウンセリングでワークをしたとき、「みんなこんなラクして生きてたのか!悔しい!」と思わず口をついて出た。
子供のときにそういう経験をしていれば、多分大人になっても心の中の部屋に好きなものをしまうことができる。それは自尊心をくれる。
みんな1人きりでは生きられないから、みんな実は心の中に応援団を飼っていて、傷ついたときはヨシヨシしてもらっている。きっとそうなのだ。
意識してても無意識でも。
いい歳こいたおっちゃんおばちゃんでも。
自分には無理だったから、子供にはそういうふうになってもらいたいな。
まずはコップの水が溢れるくらい、もういらんってくらい愛してあげないといけない。できるだろうか。。